こんにちは。永田です!
最近ふと考えることがある。
今自分がアスリートのままだったら、どんなアスリートになりたいか。
実業団にも所属できず、コーチもいなかった当時は苦しいことや思う通りにならないことが多く、まさに野良犬のようなアスリートだった。
だけど今、色んな経験をしてきて立場が変わり、思考が変わり野良犬だった永田はどうするべきだったのか考えることがある。
アスリートの価値が分からずに過ごしていた当時、価値は勝者にしか無いと思っていた。
今ならアスリートの価値がちょっと分かるようになってきました。
書いていく中で明確な答えは出ないかもしれない。
ただ、今アスリートとして過ごしている人たちの背中を少しでも押せる内容になれば良いなと思っています。
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目次
合わない鍵は永遠に開かない
僕は以前にも書いたことがあるのだけど、アスリートは基本的に泥団子を作っているのと同じ事だと思っている。
自分の好きなように誰に言われることもなく夢中になって泥団子を作っている子どもと同じ。
上手く作れれば笑顔になるし、崩れてしまったら泣く。
そしてそれをしているアスリートの価値とは。
泥団子に価値があるのか。
泥団子を作る工程に価値があるのか。
100mで言えば9.95に価値があるのか。
山縣選手のここまでの努力に価値があるのか。
これは逆立ちしたって山縣選手の努力に価値があることは明白。
では結果が伴う努力しか価値がないのか?
仮に10.00では価値はなかったのだろうか?
そうすると9.95に価値があると言っているのと同じだ。
ただ9.95や10.00などは、もはや泥団子ではない。
鉄の領域に行っている。
山縣選手は泥じゃ良いものを作れないと分かっているからだ。
掘って掘って掘って掘りまくって皆んなが使っていない地層の何かを使っている。
子どもだったら大はしゃぎだ。
何それー! どこまで掘ったらその地層は出てくるのー?
なので泥団子ではない。
だから泥団子よりも価値がある。
そして掘りまくった行為に価値がある。
僕自身起業して経営者目線で話をさせてもらうならば、当時のアスリートだった永田を雇ったか。と言われたら恐らく雇わないだろう。
当時の僕は本気でチャレンジはしていた。
そして失敗もしまくった。
だけどいつからか失敗したくないとか、失敗したら言い訳とかしてしまっていた。
アスリートは同じような失敗がどうしても積み重なってしまう。
それが怖いし耐えられなくなってしまった。
足首が痛くて。
なんか上手くできなくて。
また頑張ります。
つまり失敗を次に活かそうとしていない。
失敗を反省して何故そうなって次のチャンスで成果を出すにはどうしたら良いのか。
成果に近づけることができないと永遠に目的は達成できない。
僕は目的だけ立てていて全く道筋が見えていなかった。
むしろ頑張っていれば良いと心のどこかで思ってた。
鍵が必要な扉の前で合わない鍵でガチャガチャと永遠にやってる感じ。
他の鍵を探しに行こうともしないし、その鍵でガチャガチャやってるから永田は頑張ってる感を出している。
しかし合わない鍵だから永遠に扉は開くことはない。
出典:羽海野チカ「3月のライオン」より
多分僕は座り込んでしまった。
当時のそのような考え方で応援できるかと言ったら経営側も本気で応援できない。
それが普通の会社員がやっていたら大問題で経営者として価格を払うことができるだろうか?
結局価値を作るのはアスリートなんだけど価値を判断するのは周りの人だ。
ワクワクの精神
アスリートはそういった意味ではモノづくりに近いものだと僕は思っている。
今までより良いものにするにはどうしたら良いのか。
より良いパフォーマンスにするために適した鍵を探し扉を開け続けることが価値に繋がると思う。
そうなると勝者だけが価値があると思っていた永田は今の経営者の目線がある僕からしたら価値がない。
扉を開けることを放棄してしまったから。
ちっともワクワクしない。
人はワクワクするものに価値を見出し価格を払う。
逆も然りで価値が分からないものには価格を払えない。
だからと言って棒高跳の価値を知ってもらおうとも違う。
棒高跳ってこんなにエキサイティングで最高なんだ!
棒高跳って世界のアスリート同士もすごく仲良しこよしなんだ!
違う。そうじゃない。
僕が伝えたいのはアスリートとしてどうか。
競技種目の問題ではない。
成果を出すために正しい考え方ができるのかそうでないのか。
つまるところ成果を出した時、ベストを出した時に企業や会社の人が一緒に拳を掲げてくれるのかそうでないのか。
それは企業のプロジェクトと同じ。
もし価値がトップにしかないのであれば、AppleやGoogle、Facebook、Amazonにしか価値がないのと同じ。
成果を出す努力と工夫をしているのか。
浅瀬の泥でいつまでも泥団子作っていたって同じ泥団子で崩れてしまう。
今回も崩れてしまいました。
もっと硬く握ってみます。
では成長もしない。
ならば崩れない泥団子にするために工夫を凝らさなくてはならない。
検証と事実の確認することが大事だ。
例えば
更に掘った先の泥なら崩れないかも。
ならばもっと下の地層を使ってみよう。
いや、そもそも泥団子にサランラップ巻いたら防水もできるし崩れねえぞ。
でもそれだと大きさに限度が…。
だったら掘る道具をもっと良いものにしよう。
それならば、アレとアレが必要だね!
よし。それを試してみよう!
そこで初めて結果変わりやるべきことが明確になる。
そんな風により良く、固定概念に縛られずにチャレンジして失敗して成果を上げられるアスリートがいたら僕は本気で応援できるし、一緒に拳を掲げられると思う。
アスリートが思っているほど結果なんて周りは気にしていなくって、そこにどれだけ向き合って気持ちを注いでチャレンジしているかの方が、僕は価値を感じているしワクワクする。
そう言った意味では企業の社員も同じことが言えるかもしれない。
トライ&エラー&ケア&リトライ
俗にいうPDCAだ。
簡単に言うけれどこれが難しい。
結果に結びつかなくとも、人として成長はできると僕自身は思っている。
だから僕にとってはコレができる人は価値がある。
しかし中には勝利こそに価値を感じる支援側があるのも理解している。
結局アスリートの価値を決めるのは周りでしかない。
最後に
当時野良犬だった永田は同じ泥団子を作っては崩れ打ちひしがれていた。
ただ今のような考え方が出来るようになったのも、一線を退いて社会の考え方や自分のいた世界の狭さを知れたから。
僕なんて社会に出たら、ただ棒持って走っていただけだと気付かされた。
オリンピックに価値だけを感じていたけどそんなことは無い。
アスリートとして今ならばもっと価値を見出せるのかなとも思っている。
それは僕自身今からでも遅くないと思っているし、今なお野良犬だった永田と同じような思考のアスリートがいるのであれば、考え方を改めてほしいと思っている。
そして勝利こそが正義ではない。
目的を達成しようとする姿勢。
今はコーチとして活動している中で選手の目的を叶えるために僕も頑張っている。
しかし、僕は当時の永田にこんなコーチがいたら良かったなぁのコーチ像で活動している。
つまり僕は過去の自分を救おうとしているのかもしれない。
そして前までは全く思っていなかったんだけど、少しづつアスリート支援をしていきたいなぁとも思い始めている。
先にも書いたけど、勝利こそ正義の支援側もいる。
そしてアスリートも勝利こそ正義になりやすい。
もちろん勝利を目指している分、その気持ちも痛いほど理解は出来る。
勝てなくて悔しいのも理解できる。
僕が大事だと思っているのは次に成果を出すために何をするのか。
ですので僕は自身がより良くなることに努力、工夫をしている人に価値を感じる。
そしてその方法や考え方を伝えていきたい。
この記事が少しでもアスリートの気持ちを軽くし背中を押せると嬉しい。
ではまた次回っ
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