#133 罪と罰〜競技力が上がらない罰は自身の行動に罪がある〜

こんにちは。永田です!

 

前回罪と罰の内容で天才と凡人をテーマに書きました。

そして肝心の罪と罰というテーマを今回に回しました。

 

少し暗いテーマになるかと思いますが罪と罰がそもそも暗いので仕方ない。

そんなわけで書いていきます。

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目次

罪と罰

罪と罰という言葉を聞いて皆さんはどのような印象を持ちますか?

 

罪を犯したのだから罰を受けるべきだ。

という言葉は至極全うだと思います。

 

しかしこの罪と罰は僕が思うに、言葉の通りではなく、すべからく人生は罪と罰の連続なのではないかと思いました。

 

結論から言うと、その状態が罪であり、結果罰であると言うことです。

 

はい。意味不明ですね笑

 

では貧困がテーマなので貧困で考えましょう。

 

貧困状態でいることがであり、貧困生活がであると言うことです。

 

人生を変えようとしない時点で罰を受けていると言うことです。

僕はこのように解釈しました。

 

これは何においても置き換えられるのではないでしょうか。

 

例えば競技にしても競技力を向上する努力怠惰や思考を停止し日々消費している状態が罪であり、競技力が上がらず虚しい思いをすることが罰であるということです。

 

他にもダイエットにおいても生活を変える努力や思考を放棄していることが罪であり、思ったように体重が減らなかったり生活水準が上がらないことで罰を受けています。

 

もっと簡単に表現するならば自業自得と言うことです。

 出典:尾田栄一郎「ワンピース」より

 

知識が無いことが罪で、大事な人を殺したことが罰である。

 

 出典:福本伸行「賭博黙示録カイジ」より

 

現状を変えようとしない罪で、貧乏生活という罰

 

全ての自業自得は罪と罰で成り立っていました。


競技力が上がらないことが罰

先ほども書いた通り、罪があることにより何かしらの罰を受ける。

となると僕もまさにそれでした。

 

2016年の28歳まで競技を続けていましたが僕のベストは2011年の23歳の時です。

全てのアスリートは自己ベストを目指し日々努力を重ねているわけですが、報われないことなんてザラにあります。

 

でも、今思い返せば結果を出せなかった5年間僕は罪を重ね続けていたのではないかと今回の罪と罰を読んで思い返しました。

 

ただ練習を頑張れば良いってもんでもないのは今なら深く理解しています。

当時もそう思っていましたが、ただ走り込めば良いとかただ体を酷使すれば良いとか考えていました。

 

理にかなった方法を勉強することなく日々の消耗をしていたなと感じます。

 

例えば練習のスケジュールを立てることなく、ただ競技場に行って動いてから考えるなんてことをしていました。

他にも人の練習メニューに便乗するなど…。

 

しかし、スケジュールは理にかなった方法により立てられています。

必ずメニューや時期に意図を作らなくてはなりません。

毎日の点みたいな練習が一本の線になります。

 

僕はその日に考える分布図のような点の付け方をしていたため線になりませんでした。

トレーニングは期分けがあり狙いがあります。

無鉄砲に発砲しても的には当たりません。

 

はい。この考え方が罪です。

 

そして貧乏で競技活動費も少なかった。といのもここでは罰になります笑

競技力が変わらないことは僕にとっては何でも罰です笑

 

それが今回のテーマですから。

 

話を戻すと、自分の価値を自ら下げていたという罪です。

スポーツに価値を感じてくれる方は多いのか少ないのかは分かりませんが、僕に価値を見出してくれる人を探すことをしていませんでした。

 

バイトしながら結果を出せれば何か変わるだろうと受け身の気持ちが罪です。

それに2012年に全日本実業団で優勝をすることが叶いましたが生活は1mmも変わりませんでした。

 

そして変わらない生活に僕はあろうことか不貞腐れます。

はい罪です。

 

勝ったのであれば自分で動けば何かが変わったかもしれません。

それをあまつさえ待ちの姿勢。

 

罪です!

そして変わらぬ生活によりさらにやさぐれます笑

全国で勝っても何も変わらない。

 

そりゃそうです笑

何もしなければ、変わることのないのが世の常です。

王子様や魔法使いが何とかしてくれるのは昭和、平成初期のディズニーくらいです。

 

またそれを教えてくれる人もいなかった。

と言うのも罰を受けています。

 

人に頼らない。

 

はい罪です!

 

一人で何とかしようという傲慢な考え方が罪でした。

それにより助けてくれる人がおらず、客観的な意見を貰えずに過ごしていました。

 

意見や助けがほしければほしいと主張しなくてはくれないのです。

欲しくなくてももらえるのは街頭のビラとティッシュくらいです。

 

そんなそんな…厳しすぎる考え方やめなよ。健気に一人で頑張ってて偉いじゃない! なんて言葉を掛けてくれる人も中にはいるかもしれません。

 

違う。そうじゃない。

僕は「ベストおめでとう!」が何よりも欲しかった!

 

それを貰えないのはたくさんの罪を犯していたからなのだなと振り返ることができました。


最後に

罪と罰を読んで、20代に読むのと今読むのでは印象は全然違っただろうなと思いました。

また40代、50代で読むのも違う捉え方をするかもしれません。

 

ここに綴ったのは確かに厳しい内容かもしれませんが本質的には当たっているのではないかと思います。

自分の未熟さが引き起こす不幸は、自分の未熟さに起因します。

 

選手の結果が出ないのはコーチの取り組み方に問題があったり

ダイエットが上手くいかないのは知識不足が原因だったり

テストの点数だって勉強不足だったり

 

全て自業自得です。

 

だからこそ上手くいかないときは一人で抱え込んではいけないし、助けてほしいときは助けてと素直に言えれば誰も苦労しませんが、いかんせん誰の心の中にも見栄を張る心、自分は大丈夫だという傲慢な心が存在してしまいます。

 

そして気をつけなくてはならないのは助けを求める相手にも気をつけなくてはなりません。

相談相手がまたスットコドッコイなら、スットコドッコイな結果になります。

 

スットコドッコイに相談したことが罪であり、スットコドッコイな結果が罰である。

 

ではまた次回っ

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