#145 選手の心に寄り添うことと、甘やかすことは紙一重である。

こんにちは。永田です!

春陽気が増えてきたこの頃ですが、記録会などが始まり2022年いよいよといった感じになってきました。そんな中で記録会はこの冬に取り組んできたことがどんな形をなるのかを試す場でもあり、失敗してはならない試合に向けて予め失敗しておく場でもあるのではないかと考えています。

そしてタイトルですが、寄り添いはどこまで許容するのかといった話です。

さて、また厳しいことを書き出してしまう気が満々です笑

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目次

選手の心に寄り添うべきだ

僕はどちらかというと選手を尊重し、選手の選択を後押しするように心がけています。しかし、それはある一定の競技レベルの話です。全ての選手の選択を尊重しているわけではありません。

いきなり語弊を生みそうな言葉になってしまいましたが、競技において「逃げの選択肢」を受け入れられないこともあります。例えば、学生選手で4m80を跳んだが明らかにポールが流れ次の4m90は100%流れてバーを落とすと僕は感じた選手がいました。

その選手は普段から恐怖心を抱えがちでポールの変更に消極的な姿勢です。だからといってポールを変えずに予想通りの結果を招くのは全く意味をなしません。流れることが分かっていてそれを確認する必要は記録会では不要です。

少しその選手の様子を見ていたら変えない選択をしていたので、僕は我慢できずポールを変えるように指示しました。理由は先の通りです。そして無謀な選択肢ではないためあとコーチの僕ができることは全力で鼓舞し場を盛り上げピエロにでもなる勢いで応援することです。何がなんでもできると思わせる事。

そのためなら進んで声も出します。あと僕なりに立つ位置も考えて立ってます。それが効果を成しているかはさておき、考えられるできることは全てやります。

コーチができることは指示を言ったあとに1%でも確率が上がりそうな雰囲気を作ることしかできませんので。その甲斐あって結果論になってしまいますが4m90を一発で跳び良いシーズンインが出来たのではないかと考えています。

もちろんやったのは選手です。ただこのタイミングで選手の心を尊重しポールを変えていなかったら4m90の一発は無かったのではないかと思います。ただ同時二軸の人生はあり得ないので跳べなかったと断定はできませんが、ポール変更の選択は事実成功です。

ただ、やはり一つ言えることはこれを進んで出来る選手なのか言われて変えるのかでは雲泥の差だと僕は感じています。


ノーコメントは優しさではない

先程のはほんの一例ですが、普段練習を見ていると思うことはたくさんあります。例えば駆け抜け癖がある選手がいると、場の雰囲気は悪くなります。もちろん本人も駆け抜けたくて駆け抜けているわけではないので責めることはできません。

しかし、それに対して何も言わないのは果たして優しいからなのでしょうか? 僕はその問題に対して言える人は居ないのか? と、言わないことは自分たちの時間も犠牲にしているのと同じことだと考えています。だから僕が言います。

ただ一緒に練習している選手たちに考えてほしいこともあります。

同じ空間、同じ時間で練習をしている以上、一人が時間を食えば他の選手の練習時間を奪う行為になります。これに対して言わない、言えないとなると自分が損していることを許容していることになります。つまり優しいから言わないのであれば自分の首も絞めるし問題を起こしている相手に強くなるための本当のことを伝えていないということになります。

ただ気を付けなくてはならないのは藪から棒に責め立てることではありません。本人も駆け抜けたくて駆け抜けているわけではないので。ここが難しいとことでもあるのは分かっています。僕も駆け抜け病になったことはあるので。そこは理解しています。

しかし、その恐怖心にいつまでも付き合っているのもどうなのかという話です。本音を言えばポールに対する恐怖心を自分でどれだけ昇華できるかが強さと比例しているのではないかと思っています。

…とてもセンシティブな内容で話辛いですが、4m50〜5m00くらいの選手の駆け抜け病と5m20以上の駆け抜け病は同じ現象だが全然違うのでないかと思っています。

よく聞く話ですが、オーストラリアのフッカー選手(ベルリン世陸、北京五輪チャンピオン)も駆け抜け病を患っていたと聞きますが、6m00の抜け病も5m20や5m50のそれとは別物だと思っています。

つまり東大生の「もう勉強できねぇ。ウワァァあっぁあ」とそこらの大学の「もう勉強できねぇ。うわぁぁぁぁぁ」は別物だということです。それが世界レベルの大学の「もう勉強できねぇ。オーーーノぉぉおぉぉぉぉ」も然りです。

これは現象の話じゃなくて次元の話です。フッカーも駆け抜け病なのか〜。と言い訳している場合ではありません。背負っているものの次元が違います。

要はそのつまづいたポールを自ら乗り越えないと強くはなれないということです。

それを周りが言ってあげないとその言われない雰囲気に甘えてしまい、それはその選手の心への寄り添いでもないし尊重でもありません。そして成長せずに学生生活が終わります。

出典:藤子・F・不二雄「ドラえもん」より

ドラえもんの気持ちがわかります笑


最後に

よく高校生の時に先生に駆け抜けたら怒られていました。場の雰囲気が悪くなるので。それが怖くて踏み切っていたわけではありませんが、そこを何度も克服して強いポールが使えるようになり記録を伸ばすことができました。

だから僕はこの考え方になっています。むしろ楽にポールの恐怖心を排除できる方法があるのならば今からでも教えてもらいたい。だって怖いもん。だからこそチャレンジさせた以上、向き合わせた以上、全力で応援し背中を押してやるまでしないと僕が僕に軽蔑してしまうので選手が行けるならピエロにでもなります。

ただ伝えたいことは、同じ空間同じ時間で練習している仲間なのであればノーコメントについて考えてほしいなと思っています。そのノーコメントは時間搾取で自分に返ってくるし誰のためにもなりません。

一歩踏み出して言えたのならば次に来るのは「人に言ったからには」とうい心構えです。

これがアスリートとして大事な一つの資質ではないかと思っています。

ではまた次回っ

関連:ポールに固執したらダメだよって話

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